今回は弊社代表であり、資格の学校TAC講師歴20年、レジェント級中小企業診断士の辻井修二さんにインタビューしました。
辻井代表は、TAC講師と企業研修を中心に活躍しています。
前半では中小企業診断士を目指したきっかけから、診断士としてのキャリアのうち主に前半についてお話を聞きました。
診断士になろうと思ったきっかけは何ですか?
実家が魚屋で、子供のころは魚屋になろうと思っていました。ですが、私はアトピーで、皮膚科のお医者さんに「水を使う仕事はダメだよ」と言われ、小学生の時に魚屋を断念したんです。
でも商店街でずっと生きてきたので、商店街に対する思いのようなものがあって。
大学生のときにTACのパンフレットを見て、中小企業診断士を知りました。「こういう商店街への関わり方もある」と思ったのが最初のきっかけですね。
実は大学時代に一度TACの中小企業診断士講座に申し込んだんですけど、財務会計で挫折し(笑)。
勉強を一度止めて、就職しました。元々「いきなり独立はないなと」思っていたので、就職しようとは思っていました。
そうすると、合格した時はいわゆる企業内診断士だったということですか?
いいえ、そうではないんです。私は会社を約1年で辞めてしまったんです、診断士を目指すために。
会社を辞めて再び勉強を始め、1次試験に合格しました。ただ、今と違って合格発表に1カ月以上かかっていたんです。合格の手ごたえがまったくなかったので落ちたと思い込み、諦めて2次試験の勉強を全然してなかったんですね。
結局2次試験は落ちて、2年目の学習に突入しました。
ひとり暮らしで貧乏だったので複数の派遣会社に登録して、いろいろな仕事をしました。建設現場で重たいパネルを運んだり、NHKの電波が入っているかどうかを車で回って調査したり。あと、携帯電話をひたすら操作してエラーが出ないかどうか調べる仕事とか。
勉強は多い時で月に300時間くらいやっていました。派遣先で9時から5時まで働いて、家にすぐに帰って夜12時くらいまで勉強していました。
土日はTACに入り浸ってました。9時前にはTACに着いてましたね、いつも。
12時間くらい勉強して、掃除のおばちゃんに「まだいるの?」みたいな顔されて、そこから家に帰るような生活をしていましたね。
派遣はスポットでやっていたので、まるまる勉強する月もありました。その時は1日12時間くらい毎日勉強していた感じでしたね。
平成14年に合格されて、診断士としてどのような目標を立て、どのようなことに取り組みましたか?
やはり商店街に関わりたいという思いがありました。
当時、独立診断士の集まる会があって、そこに行くと月替わりで偉い先生が話しに来て、飲み会にも参加して仲良くなると仕事をもらえる、そういった集まりです。毎月通って、1年目は商店街の仕事をしている偉い先生の後についていって、議事録を作ったりなど、経験を積ませてもらいました。
1年目はTACの講師にもなっていました。それで、1年間はTACの講師室で働き、経営法務のテキストを作りました。講師としても初年度から登壇させてもらいました。
カバン持ちとTAC。それが初年度ですね。
2年目に、実務補習の仲間だった人が杉並区の「商工相談員」という融資の相談員をやっていまして、「辻井さんもどう?紹介しようか?」と誘ってもらい、融資相談を始めました。当時は月6日くらいだったかな。
そこでいろいろな経営者さんと話したり、商店街の話にも少しずつ関われるようになっていきました。
診断協会には入っていましたか?
私は東京診断士協会の城西支部に入っていて、城西と関連するところでは杉並診断士会と豊島区診断士会にも入っていました。杉並診断士会の仕事が多かったですね。
城西支部では総務部で事務方のお手伝いをやっていました。賀詞交歓会とか、ボーリング大会の手伝いもありました。当時は、診断士会の集まりにはよく行っていました。
昔は20代がほぼいなかったんですよ。私が受かったのが28歳の時で、30代前半がほぼ皆無の時代だったんですね。
今は30代が中心だと思うんですけど、当時は40代がメインだったので、行けば「若いヤツが来た」といった感じで。私だけ「君」づけで「辻井君」って呼ばれてました。
漠然と「君づけで呼ばれているようじゃダメだろうな」と思っていて、早く「辻井さん」と呼ばれるように頑張ろうと思ってましたよ。
当時、若い診断士は良い仕事を取れませんでした。でも、若僧なのでこき使いやすかったのか、下請けの仕事はいただきやすかったと思います。
TAC講師、区役所の相談員、あとは下請け業務、この3つが3年くらいは多かったと思います。
その当時は一週間働き漬けのような生活ですか?
3、4年目くらいは本当に休みがなくて。ムチャクチャ働いていました。何日休んだんだろうっていうくらい。
でも恐怖だったのが、手帳見ても2カ月先って真っ白なんですよ。それが2カ月後になるとビッチリになってる。
先が読めないのにずっと忙しいというのを繰り返していました。だから怖かったです。
大きな不安がなくなってきたのは、ひとつはTACのおかげです。ほぼ土日にフルで授業をやるようになると、それだけでもう生きてはいける。
そこからどうやってプラスアルファにするかというと、若い頃は、特に行政関係の仕事を多くやっていました、偉い先生からの紹介で。
予算消化に絡む行政の仕事というのは、年度末1月から3月くらいに溢れてくる。だから、「また今年も担当させていただけるんだろうな」という感じで待っていましたね。
TACのお仕事が軌道に乗ったのは何年目くらいからですか?
TACが校舎拡大中で、確か3年目でしたが、新しく新宿校ができたんです。新宿校の日曜クラスを全科目任せてもらえることになりました。
4年目に池袋校の上級生クラスを1つ任せてもらって、土日はTACに入り浸りみたいな感じでしたね。当時は資格取得が流行っていたこともあって、今より受講者数は多かったんですよ。
2次試験の添削でもいくらか稼げるので、多少安定しましたね。それでも当時は修業という意識が強かったです。
役所のお仕事も、お金稼ぎというよりは修行と思っていました。経営者さんとたくさん話せるのは楽しいし、ためになるし、下請け仕事も自分の実績に繋がると思っていたので。
TAC講師も人前で話す機会をたくさん持てるのはありがたいことだと思って。それが今に繋がっています。
よく診断士の仕事は「診る、書く、話す」と言われますが、修業時代にその経験を積まれたということですね?
そうですね。「話す」がTAC講師、「診る」が商工相談。
「書く」もやっていました。
下請けで会合に行くと、「この記事書いてよ」とか。メディアの全国団体みたいな組織があるんですよ。TACで企業経営理論を習っていた先生が、偶然にも独立診断士の集まりにいらっしゃって。その先生から何回かマーケティングなどの記事を書く仕事を振ってもらって。
あとは業界動向や企業インタビューの記事も書きました。アポをとって、現地に行って話を聴いて、まとめて。自分なりにまとめると内容が整理できるじゃないですか。
現場で良いお話が聞けるっていうのもあるし、私にとっては修行というより学びに近かったですね。
5年目だったと思いますが、その集まりの伝手で、「全国商店街振興組合連合会」という商店街振興組合の全国団体の研究員になり、週2回行っていました。
全国の商店街振興組合のとりまとめが仕事なので、北は北海道から南は九州まで、成功している商店街に行って話を聞いて、文章にまとめていました。研究員3人で商店街の事例集を作りました。
それも「聴く」と「書く」の経験。私が取材に行くと「中小企業診断士が取材に来てくれた。我が商店街もこんなに立派になったぞ」と喜ばれました。私の取材自体が、地方の新聞で取り上げられたこともあったんですよ。
1年目から3年目の頃は「商店街のお仕事をしたい!」と言い続けたんです、いろいろなところで。商店街の研究会やショッピングセンターの研究会に顔を出して「流通系でいきたい!」と言っていました。
知り合いになった先生に年賀状や残暑見舞いを出して「商店街やりたい」って書いておくと、声が掛かって、飲みに行ったりして「今度、お金いらないので、カバン持ちをさせてください」とお願いしていました。実際カバンを持つことはありせんでしたけどね(笑)
商店街やまちづくりをやりたいっていう筋が一本あったので、それをやりたいという情報発信しつつ、それに関連する学びになりそうなことは片っ端から経験した、こういうイメージです。
「学び」「修行」でやってきたのが、本格的に「仕事」になる、その転機はいつですか?
正直なところ「ない」です。「ない」っていうのは、今でも「学び」だと思っているからですね。
一番大事にしているのは「ワクワク感」です。大してお金にならないと思っても、自分にとってプラスになると思ったら、受けます。
私はもともとマーケティングに興味を持っていたのですが、区役所を訪れる中小企業経営者からはマーケティングなどの販売促進よりも、人材採用や育成、資金繰りの悩み相談が多かったんですね。
何百人かの経営者とお話しするうち、自分は「人材系がとにかく弱いな」と分かりました。人材系の実践経験がほとんどなかったので。
その頃から「人材系をやりたい」と情報発信するように変わっていきました。
その時にお世話になっていた先生の伝手で、人材系の助成金、当時は「キャリア形成促成助成金」という名前でしたが、そのサポートをする町田商工会議所の「ジョブカードセンター」で職員を募集しているというお話をいただき、採用していただきました。
ジョブカードセンターの職員として2009年から3年間、中小企業に行って、人の採用とか育成などを、ガッツリとサポートすることになりました。
その時がたぶん、私の中で一番忙しい時期です。区役所にも行って、TACでも教えて、それ以外の仕事もあり、当時はもう顧問先もあったので、ものすごくしんどい時期。
年間360日以上働いていたハズですね。
360日以上はすごいですね!!
365日はないと思うんですけど、年末年始は普通に働いていましたね。
でも「この人生はダメだな」と思って、2011年に町田商工会議所を辞めました。翌年結婚したので、辞めて良かったなと思いました。
その翌年子供が生まれることが分かり、また気合い入れて頑張らないとなと思って、町田商工会議所勤務時代に知り合いになった東京商工会議所の職員に会いに行ったら、「じゃぁうちに来なよ」って誘ってもらい、2013年から東京商工会議所で働くことになりました。
2年間働いて、今度は日本商工会議所の部長さんから「来なよ」って言われて、最後は日商で働くことになりました。
そこで、人材系の話はひととおりやりました。それと共に、2012年に産業カウンセラーの資格を取りました。診断士と産業カウンセラーの相性は良いなと。
だから、今でも合格者のみなさまには、コーチングとかをお勧めしています。診断士はもっとヒューマンスキルを磨くべきだと思っているので。
診断士の資格を取ったけど人の話を聴くのが上手じゃない人とか、プレゼンが上手じゃない人とか、対経営者力が弱い人とか、時々見かけるんです。そこは自分で補填しないと仕方がないですよね。
プレゼンテーションスキルの向上は研修とか塾みたいなものに行っても悪くないと思いますが、それよりも現場に行ってしゃべる経験がすごく重要だと思っています。
傾聴の練習は、コーチングやカウンセリングの資格を取るところでもある程度経験が積めるので、それが一番いいんじゃないかと思います。
それがだいたい中期くらいでした。飛躍っていう感じではなく、足りないところを補填した感じですね。
お金の話は区役所でやっていましたので、「金」と「人」が揃って、自分なりには研鑽を進めてきました。
あとは顧問先とやりとりをする時に、法律系の話になると弁護士さんに橋渡しするケースがすごく増えて、東京商工会議所の異業種交流に何回か参加して、弁護士さんの知り合いを増やしました。
TACの受講者で弁護士さんが何人もいたので、そういう人とのつながりで、案件ごとに弁護士さんに橋渡しのパターンを作りました。自分自身では法律の個別相談には対応できないですけど、法律系の現場力はそのあたりでついたかな。
自分なりには、経営者さんにニーズがある「人」「金」「法律」、このあたりがひととおり網羅できました。
システムはもう「人に投げちゃえ」って、最初からずっと思っていたので(笑)。案件が来て自分がやることは、まずないですね。
お金の話は、現場力をどのように身に付けられたのですか?
区役所の融資相談ですね。融資相談を何百件とやりました。
何百人もの経営者さんと会って、創業相談も随分やりましたから、その時にB/S、P/Lを見るのは当たり前として、資金繰りを一緒に考えたり、金融機関さんとやりとりする機会もありました。そういう所で、お金の感覚はわかった感じですね。
「金」と「人」は外せないと思います。「人」のことでまったく悩んでいない経営者さんなんて、ほとんどいないと思いますね。
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